« 2014年11月 | トップページ | 2015年1月 »

2014年12月

2014年12月31日 (水)

みなさま、どうぞよいお年を!

ちゃちゃっと小掃除をすませ、4年ぶりに母といっしょに台所に立っておせち作り。
お煮しめと、甘酢っぱ〜い匂いに、年の瀬が満ちています。
ゆっくり読みたい柳誌や句集が続々届いて、三が日のおたのしみもたっぷり。
このブログも更新が少なくなってきていますが、来年もぼちぼちつぶやけたらいいなと思っています。
それでは、残り少ない2014年を、こころおだやかにお過ごしください。
また来年もよろしくお願いいたします!

2014年12月30日 (火)

幸福と林檎どっちが北にある

昨日、今年最後の原稿をやっと入稿。夜中まで年賀状を書く。今日は、ベリーダンスを踊り納め、夕方には母が来るので、それまでに掃除をごまかす程度にする。

先ほど「新思潮」誌が届いた。年末に発送作業された方がいらっしゃるのですね…。秋の青森吟行の句が、掲載されていた。そうそう、こんな句を詠んだ。りんご、色といい、かたちといい、香りといい、どこまでも愛らしい果物だなぁ…。

夕べ、娘に頼まれたドーナツを買いにMドーナツへ。若いお兄さんの店員さんは、私に気づいていながら、作業の手が離せない様子。やっと終わったら手を洗い始めた。マニュアル通りに丁寧に洗うのねと感心して見ていたが、どうも丁寧すぎる。どんだけ?何を触ったの?と不安にさせて、やっとレジに来てくれた。何気に名札を見たら「ほうち」さん。(プレイですか?)と内心つぶやく。

ぎゃ〜、母がもう着くって!掃除、間に合わないわ〜!「なにこの玄関。この家、何人住んでるのよ!」…玄関から順に母の小言を予想できるわ〜。

2014年12月27日 (土)

「死」で黙らせて「死、死」で追い払う

納得できる新年詠ができないまま眠り、夢の中で(もうあれでいいか)と思ったとき、「あきらめたら、そこで試合終了ですよ」。安西先生登場!で、もう一日、締め切り日いっぱい粘った。二周ほどまわって、一見普通ぽい句に落ち着いたが、自分では納得した。

安西先生といえば、大好きな漫画「SLAM DUNK」。井上雄彦が「SLAM DUNK」の次に書いた「バガボンド」は、人がどんどん死ぬのが辛くて重くて確か3巻で読むのをやめた。でも、もう一度、井上雄彦の描く「死」に向き合ってみようかと思う。生きることは、死ぬこと…。生きながら死ぬ、死んで生き続ける…。来年は「バガボンド」、バカボンのパパじゃなくて。

2014年12月25日 (木)

ビロードになるまで撫でている臙脂

今年の神戸新聞文藝川柳壇年間賞は、
 ラジオから谷内六郎さんの汽車  平野ふさ子

谷内六郎さんの画文集「北風とぬりえ」(マドラ出版)を読み返す。朴訥とした文章が、胸に沁みる。沁み渡る。「ほころびるようにコロコロと鳴くコオロギ」「トロッコには幼い日のゆりかごに似たうたがあります」…など、画家は詩人でもあるのだなあと思う。谷内さんの絵は、青みがかっている。見ていると青がこぼれてくる。

2014年12月22日 (月)

イタタタタ…

脇腹くらいの高さの岩と岩のすき間を、娘が身体を横にしてすり抜けた。つづいた私は、お腹が引っかかって出られない。お腹を引っ込めても、挟まったまま動けない。娘は、爆笑している。笑いごとじゃないよ。痛い、痛いよ〜・・・って、ほんとにお腹が痛くて目が覚めた。一日、湯たんぽを抱いて原稿を書く(泣)

昨日は昨日で、JRの乗り越し精算機にPiTaPaを忘れてきた。駅に電話したら、すでにカード会社に連絡ずみで、ロックがかかってしまった。銀行系のカードだったので、クレジットも使えないし、預金の引き出しもできない。再発行に1ヶ月もかかるって(泣)

一昨日は一昨日で、5千円札が入り用になった。コンビニでメール便を出して、1万円札で「きれいめの5千円札でおつりいただけますか?」とお願いしたら、「これしかありません」と、鼻でもかんだようなのをくれる。(駅前のコンビニがそんなことある?)仕方ないので、ATMで5千円を出金したら、千円札5枚。そうきたかと、今度は1万円を両替で出金したら、千円札10枚。どんだけ千円。こうなりゃと酒屋さんで5千円のおつりをもらうべく買い物したら、消費税分で5千円越えてしまった。(計算弱すぎ)本屋さんでやっとゲット(泣)

2014年12月21日 (日)

魂の限界に立つゆきだるま

「俳句Gathering」に参加。第2部、特別トークライブ「短歌・twitter・文学フリマ」、歌人の土岐友浩さん(1982年生)のお話は興味深かった。
短歌の発表媒体が、結社誌、総合誌以外になかった。ふとtwitterで短歌の読みをつぶやいてみたところ、思いがけず歌人から反響があった。さらに、一首を題に絵を描く「真夜中のお絵描き一本勝負」の呼びかけには、歌人以外からも参加があった。また、仲間内で配布されるのみだった短歌誌を、文学フリマを通して短歌界の外へも流通させつつある。その際も、仲間集めやPRにtwitterが役立っている。結社の場で学びながら、それを結社外での自由な動きに生かしているということだった。
川柳も、サラ川のイメージしかない人や、川柳を知らない人にも読んでほしいという声をよく耳にする。やり方次第で、可能性はありそうだ。求められるのは、中身も見た目もデザイン力だろう。既存の柳誌やアンソロジーのままでは、手にとってもらえないと思う。文フリで話題の「短歌男子」など、やっぱりおしゃれ!川柳に、文フリは若すぎるかもしれないけど…。

第1部、第3部は、「関西6大学俳句バトル」。俳句甲子園出身者も何名かいて、ディベートがうまくて感心する。句は意外と古風な印象。題が「こたつ」や「数え日」だったせいだろうか?
ただ 、最初からディベートのための読みのトレーニングをするのって、どうなんだろう?と、ちょっと気になった。俳句のよさを感じとる感性を、削がないだろうか?

タイトルは、「当日投句大会」の席題「雪だるま」のボツ句。川柳、まる出し(笑)。

2014年12月18日 (木)

じいさんはひらたくねむる干瓢巻き

怒濤の5日間をダイジェストでお送りする。(誰のリクエストもないが)

14日。ねじまき句会の日は、句会後、名古屋で軽く(?)飲み、大阪で娘と待ち合わせて焼き鳥屋へ。オーダーに 軽く微笑みながら頷くお兄さんの、その仕草がツボにはまり何度も呼んでしまう。おかげで飲み過ぎる。

15日。むかしの同僚から、久しぶりに会いませんか?とメール。前回、彼女と会ったあとの半端ないもやもや感に何度か断ったのだが、さすがに7年ぶりなので出かけてみる。会って3分で後悔。読みかけの「マウンティング女子の実体」がドンピシャ。あ、出た「プロデューサー型」。おっと「事情通型」と分析しながら聴く。残念なことに回避法まで読んでいなかったので、ひたすら受けとるのみ。思うに、あの本は女子の会話のあるあるに、「マウンティング」と名付けたところが全てであろう。

16日。つづきの会。句会後、娘が職場近くの美味しい店を紹介してくれるという。待ち合わせに1時間ほど遅くなるというので、時間つぶしに飲んでいたら叱られた。おすすめの山芋の春巻きは、いつもは87点くらいなのに、なぜか大ハズレの23点だとか。その後、有名なラーメン店へ。寒風吹きすさぶ中、並ぶ。ラーメンよりも、超繁盛店のフロアを一人でまわす見事な仕事ぶりのスタッフを見せたかったらしいが、なぜか別人。ことごとくハズレの日であった。

17日。家族も同席のうえで説明があるとのことで、父の病院へ付き添う。母は、予定通り忘年会へ。超越したマイペースぶりである。なかなか難しい選択を迫られたが、父は自分で決める人なので、とにかくそれを支持しようと思う。病院から帰ってから、くしゃみが止まらない。マスクを忘れたせいかな?

そして、本日。小雪の舞う中、久しぶりにジムへ。バレエの仕上げ曲は、賛美歌のようなゆっくりした曲。先生が何度も、「音をぜんぶ使って〜」と言う。川柳でも音がぷつぷつ切れる句と、流れるようにぜんぶ使う句があるな…と、どんなときも川柳のことを考える私(笑)。後のパワーヨガでは、しばらく休んだのと寒さのせいでか、鳩のポーズができなくなっていた。あ、いや太ったからです、はい。

2014年12月13日 (土)

カンタンに落ちるプッチンプリンより

鴻上尚史「八月の犬は二度吠える」の主人公は、病状が悪化してからはプッチンプリンしか口にできなくなった。プッチンプリンがきれいに落ちると少し気が晴れて、崩れるとかなしい…。あの無邪気な食べ物を、祈るように摂る人がいるのだ。

柳本々々さんが、掲句を読んでくださいました。いつもながら、句へのアプローチが新鮮!

2014年12月11日 (木)

クロストーク短歌「虚構の楽しさ、虚構の怖さ」

プロムナード現代短歌でも取り上げられた「虚構」問題。吉川宏志さんと松村正直さんの対談ということで参加した。覚え書きとして、印象に残ったことばを記しておく。レジュメの余白に書き込んだので、文脈にズレがあるかも…。

文学においていかなる虚構もOKは、まず前提。(吉、松)

「虚構」といっても、脚色・演出、非事実、物語・ファンタジーなどあり、すべてを一緒に論じることはできない。
短歌は何の説明もなく事実として読まれることがベースであり強み。虚構の議論はそこを崩してしまう。いちいち虚実を吟味しながら読むと、感動もできない。(松)

たとえば佐村河内問題にもみるような、現代の感動(ドラマ性)を求める地場に、若い人が無意識に反応しているようなところもあるのではないか。そのうえで、物語と音楽は切り離せるが、物語と短歌は切り離せない。
歌人は、作品で(人生の)予行演習のような、無意識に先取りしてしまうこともある。たとえば、まだ生まれていない子どものことを詠んでみたり。(吉)

祖父の死を通して父の死を想像して詠んだという石井氏の作品は、新人賞ということと、震災にもからむ時代の空気も含めて問題になったのか?
素朴な文体であるし、祖父の死としてそのまま詠んでもよかったのでは?
ありのままというのは奥深い。頭の中で作ると、自分を出られない。(吉)

平井弘は、実在しない兄の戦没を詠み批判された。
日中戦争に従軍した渡辺直己は、没後、一部の作品が伝聞、空想であったことが判明し評価が変わった。
肉親の死や戦争、震災体験は、内容の重さで倫理の問題になる。
実体験であっても歌のうまくない人もいれば、実体験はなくてもうまい人もいる。そこは必ずしも比例しない矛盾がある。(吉)

永田和宏には、旧約聖書のカインとアベルを題材に詠んだフィクションの連作がある。異母妹がいる自身の境涯をストレートには詠えなかったのではないか。作者の境涯にどこまで踏み込んで詠むべきかは意見の分かれるところだが。
高野公彦の「楕円思想」は処刑された人の手記から、その人になりかわって詠んでいる。
たとえば『こぼれ落ちしボタンが床に光りをり寒きかな獄はゆふべとなりて』の、「こぼれ落ちしボタン」のように、フィクションであればあるほど細部が大事。(吉)

連作「人魚の肉」は、若さを失うかなしみを幻想小説風に詠った。性的なモチーフも含んでいるので、そのままは詠えない。単なるフィクションではなく、根っこはある。また、フィクションだからこそ、ディテールを大事にしないとただの作り事になる。実際の出来事のみが現実ではなく、心の中の現実もある。
実体験ベースのフィクションが「人魚の肉」ならば、「旧倉戸村」は全くのフィクション。自分のルーツを歌で作りたかった。言い得ない負の部分があるからこそ、そこが変形して歌に出てくる。(松)

「火柱」は、小泉元首相が靖国神社を参拝したときの連作。実際に神社で取材し、ストレートに言えないことを変形させている。
社会詠には、作品と作者が違っていてはいけない、作品に対する責任があるかもしれない。そうでないと、言葉が人間のからだを離れてしまう怖さがある。短歌は肉声であるから。(吉)

最後に会場からの質問。「どんな虚構もありということでしたが、人の悲惨だけは本人のものではないでしょうか?」
昔は代作というものもあった。自身の体験を詠うというのは近代以降の倫理観。震災にしても、映像などを観て、感情移入して詠いたいという気持ちも否定できない。歌人それぞれが自分の中でラインを引くべき。
「私」ってなんだというと、「私」も変わってきている。たとえば、雅号をとっても、本名もしくは姓名のペンネームだったのが、名前のみや、みかん、夏みかんなどになってきている。

実際には、多くの歌を引いての話でとても分かりやすかった。
今回の新人賞作品は、「虚構」自体が大きな問題だったのではなく、公表の仕方やタイミングがまずかったという一面もあるのかもしれない。
フィクションで詠む場合、フィクションを選択する必然性、そして全体から細部に至るまでの完成度に心しなければならないと思った。
「短歌は肉声」…こころに響いた。

2014年12月10日 (水)

ぶら〜り明石 その2

明石駅で色紙おじさんに迫られることもなく、無事友人と合流。

それぞれの持ち寄った明石情報を地図に落とし、観光案内所で所要時間など確認。私が提供した唯一の情報、「明石市役所の展望レストランは安くて美味しい」は、日曜定休のため役に立たなかった。
明石城跡公園を散策、魚の棚を通り抜け、卸売り市場でせり見学。跳ね上がる魚、這いまわる蛸らが次々題の上にあげられ、歌うような掛け声に、指を立てたりひらひらさせて競り落とされていく。同じ値がついた時はじゃんけんで、これがまた男の勝負じゃんけんであった。「私らも、思い切って台にあがってみる?」「鮮度悪すぎで売れ残る…」「脂はのってるのにな…」「じゃんけんされたい」「うるさい!って〆られるで・・・」。そう、競り落とされた魚は、その場で〆られる。目の後ろ斜め上が急所らしく、太い針状のもので一突きされては静まっていった。それにしてもリズミカルでエネルギッシュで、見ているだけで元気をもらった。魚市場は、ある種パワースポットである。
つづいて明石と言えば明石焼。「本家きむらや」でふわふわの明石焼を食べ、夏目漱石が講演したという中崎公会堂を見学。大蔵海岸を散歩。間違いなくデートコース。
子午線を通過し、路地裏をうろうろしていたら、小さな祠「腕塚神社」発見。腕の病気を直してくださるとか。ばね指のMちゃんが呼ばれたんだ〜と、ありがたくお参り。明石天文科学館へ。
丁度プラネタリウムの上映時間だったので観覧することに。席に着いたら、おじいさん15名ほどのグループがやって来た。イヤな予感はしたのだが…私の後ろのおじいさんは、席に着いて2秒でいびきをかきはじめた。早っ!いよいよ上映がはじまると、ロマンチックな星のお話を子守唄に、おじいさんが次々ねむりに落ち…クワ〜、カオ〜、ズゥ〜…夜の動物園ですか状態に。おじいさんたち、星いらんでしょ。
いびきを堪能後、もう一度魚の棚へ戻り、蛸やら鯛やら買って終了。なかなか充実したぶらり歩きであった。Tちゃんはルミナリエに寄って帰ると言っていたが、締め切りの待っている私は帰路につく。遊んでいる場合じゃないときに遊ぶ、罪悪感らしきものが薬味のように効くんだわ、これが…。

2014年12月 9日 (火)

ぶら〜り明石 その1

ATM(チーム名がないので、ニックネームの頭文字で今名づけた)大人の遠足。過去には、茶摘みや香道、写経などコスプレ、体験シリーズなどたのしんだが、最近はもっぱら、ぶらり歩きシリーズ(円弘志か!)。今回は、明石をぶら〜り、2万歩でした。

濃い一日は、待ち合わせ場所に着く前からはじまった…。

贈り物に立ち寄った花屋さんでは、おばちゃん。シクラメンの鉢植えを選びながら、「嫁に、贈るねん」。「それは、よろこばれますね」と返したら、もう止まらない。「シクラメンの花言葉ってなに?」「えぇっ?調べましょか?」「え〜、遠慮、内気、はにかみ…」「内気ちゃうけどな…まあええか」。さらに…。去年までは胡蝶蘭なんかを贈っていたが、今年は予算削減した。来月は、孫の発表会にまた花束を贈る。友人は、嫁から花をもらって、現金か商品券にしてほしいと言った。年寄りは、花より下着とかの方がうれしい。などなど…立て板に水どころか、春の滝のようにどどーっと。押し流されそうになる。

新開地駅では、おじさん。乗り換え電車を待っていたら、「どこまで行くの?」に「明石です」と答えてしまった。帽子にすき間のないほどバッチをつけている以外は、こざっぱりしたフツーのおじさん。60代後半か。「山陽の券売ったら8万円もらえる、8万円ちょっとした小遣いやろ」。私が怪しんでいると思ったのか、「ほれ、これこれ」と白い封筒から取り出したのは、株主優待券の送付状。「8万円もらったらな、エッチしに行くねん」。(意味わかりませんけど)「ほんでな記念にな、色紙書いてもらうんねん。記念に」(もっと意味わかりません)おじさん、リュックからうれしそうに色紙を取り出した。直径4センチくらいの子どもみたいな字で、「あんパンとブ/ドウありがと/う。おいしかっ/たよ。/2014.12.7/ミ●●ン」最後の4文字は、カタカナの名前。ニックネーム?
あとで考えたら、何のための記念で、記念色紙を後でどうするのか?インタビューしてもよかったかな?と思ったが、その時は完全に引いてしまった。
電車がやっと来た。おじさんとは、別の車両に乗り込み、海側を見る席に座る。
曇り空を映した海は、どろんとした灰色。不敵な視線のような光を放つ。
ふいに、おじさんが明石で降りてきたらどうしよう…と不安になる。株主優待券の封筒には、一万円札数枚が入っていた。そして、色紙はもう一枚新しいものを持っていた。
いやいや、絶対1万パーセントないよ、ないけど、…そうだ、「あなたにこんなこと言ったら軽蔑されるかもしれないけど、私、行きずりの人としちゃった」と、Aちゃんが泣いたことあった…。軽蔑なんてしないよ、それはリストカットみたいなものじゃない…「私がもっと力になれたらよかった…ごめん」と私も泣いた…。灰色の海を記憶が流れる。
いやいや、ないよ、ないけど、色紙に1句書いたりしたらどうしよう…と思う。あんぱんの句はないな…あんぱん…あんぱん…いや、詠まなくていいから。
明石に着いた。気分は旅のおわりのようだった。

2014年12月 3日 (水)

散歩会@はにわ工場公園(史跡新池埴輪製作遺跡)

高槻市新池には、5〜6世紀ごろ、日本初、最大級のはにわ工場があり、焼き窯18基、工房3棟、はにわ職人の住居まで整っていたとのこと。
現在は、焼き窯の跡が一つと、復元された茅葺き屋根の工房が二つ、はにわ少々の小さな公園。吟行としては句材が少なく、冷蔵庫の残り物で作るチャーハン…例え悪すぎ、・・・とにかく、あるもので何とかする日だった。
今日も参加者が少なめで、めずらしくフリートークの時間あり。場所、人数(メンバー)、お天気など、あらゆる偶然の力を借りて句が生まれ、句と出会うのだということに、今さらながら感じ入った。一年の締めくくりに、いい散歩会だった。

 なつかしい樫の木だれの記憶だろう

 空よりも遠いところを見る埴輪

 痛くない白を選んだ枇杷の花

 戦意喪失 内股の力士いて

 鳥去ってうつらうつらとゆれる水

 ぬくもりに触れないように巫女の指

 もう一度つめたい犬を見に戻る

 皆どこか欠けてやさしく立っている

2014年12月 2日 (火)

プロムナード現代短歌 雑感

ツイッターで話題になっていた、短歌の某新人賞の「虚構」問題。亡き父を詠った作品が受賞後に、父は健在であることが判明したことで「虚構」が問われている問題。

この問題を最初に目にした時、川柳だったらもっと叩かれるだろうな…と感じた。川柳作品も、もちろんフィクションは認められている。が、川柳におけるフィクションは、事実なり実感なりを核に、ふくらませたり、歪めたり、ずらして書かれるフィクションが圧倒的多数で、明らかなフィクションでない限り、フィクションとして読むことに馴染みがない。ましてやコンテストの応募作となると、不謹慎、あざといといった非難は免れないように思う。

プロムナード会場でもそうだったが、短歌は若い人が多い。俳句も同様。川柳だけが、過疎の村のように高齢化が激しくて、10代、20代の人の作品と接することがほとんどない。
荻原裕幸さんが、資料で短歌新人賞受賞作から引かれ、短歌におけることばの変化として触れられた作品。
 朝刊のおくやみ欄の名の数より多くおくやむ人いること
 社是唱和 白いセミナー室にいてわたしは生まれなおされている
1首目の「おくやむ人」、2首目の「生まれなおされている」。これらの表現は、現在の川柳では日本語の使い方としてNGと判断される気がする。
荻原さんは資料のさいごに、「口語、散文、日常語的なものがほんとに浸透したのだろう。短歌におけることばの歪み、日本語におけることばの乱れとが、かつてないほどシンクロしているようで、短歌を書くという行為の専門性が、従来とはまったく違った方向に広がりつつあるように見える。これでいいのかも知れない。だめなのかも知れない」と書かれている。
悪意も、切実な動機もなかったという今回の「虚構」。虚構の何が悪いと言われれば、悪くない。むしろ川柳では、そこがもっと広がればいいとすら思う。それでも、会場で感じた空気がうすくなるような感じは何だろう?…「死」も含めた何もかもが軽くなっていくような…漠然とした危機感かな?…わたしも古いのかな?

« 2014年11月 | トップページ | 2015年1月 »

無料ブログはココログ