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2014年12月 2日 (火)

プロムナード現代短歌 雑感

ツイッターで話題になっていた、短歌の某新人賞の「虚構」問題。亡き父を詠った作品が受賞後に、父は健在であることが判明したことで「虚構」が問われている問題。

この問題を最初に目にした時、川柳だったらもっと叩かれるだろうな…と感じた。川柳作品も、もちろんフィクションは認められている。が、川柳におけるフィクションは、事実なり実感なりを核に、ふくらませたり、歪めたり、ずらして書かれるフィクションが圧倒的多数で、明らかなフィクションでない限り、フィクションとして読むことに馴染みがない。ましてやコンテストの応募作となると、不謹慎、あざといといった非難は免れないように思う。

プロムナード会場でもそうだったが、短歌は若い人が多い。俳句も同様。川柳だけが、過疎の村のように高齢化が激しくて、10代、20代の人の作品と接することがほとんどない。
荻原裕幸さんが、資料で短歌新人賞受賞作から引かれ、短歌におけることばの変化として触れられた作品。
 朝刊のおくやみ欄の名の数より多くおくやむ人いること
 社是唱和 白いセミナー室にいてわたしは生まれなおされている
1首目の「おくやむ人」、2首目の「生まれなおされている」。これらの表現は、現在の川柳では日本語の使い方としてNGと判断される気がする。
荻原さんは資料のさいごに、「口語、散文、日常語的なものがほんとに浸透したのだろう。短歌におけることばの歪み、日本語におけることばの乱れとが、かつてないほどシンクロしているようで、短歌を書くという行為の専門性が、従来とはまったく違った方向に広がりつつあるように見える。これでいいのかも知れない。だめなのかも知れない」と書かれている。
悪意も、切実な動機もなかったという今回の「虚構」。虚構の何が悪いと言われれば、悪くない。むしろ川柳では、そこがもっと広がればいいとすら思う。それでも、会場で感じた空気がうすくなるような感じは何だろう?…「死」も含めた何もかもが軽くなっていくような…漠然とした危機感かな?…わたしも古いのかな?

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