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2014年12月11日 (木)

クロストーク短歌「虚構の楽しさ、虚構の怖さ」

プロムナード現代短歌でも取り上げられた「虚構」問題。吉川宏志さんと松村正直さんの対談ということで参加した。覚え書きとして、印象に残ったことばを記しておく。レジュメの余白に書き込んだので、文脈にズレがあるかも…。

文学においていかなる虚構もOKは、まず前提。(吉、松)

「虚構」といっても、脚色・演出、非事実、物語・ファンタジーなどあり、すべてを一緒に論じることはできない。
短歌は何の説明もなく事実として読まれることがベースであり強み。虚構の議論はそこを崩してしまう。いちいち虚実を吟味しながら読むと、感動もできない。(松)

たとえば佐村河内問題にもみるような、現代の感動(ドラマ性)を求める地場に、若い人が無意識に反応しているようなところもあるのではないか。そのうえで、物語と音楽は切り離せるが、物語と短歌は切り離せない。
歌人は、作品で(人生の)予行演習のような、無意識に先取りしてしまうこともある。たとえば、まだ生まれていない子どものことを詠んでみたり。(吉)

祖父の死を通して父の死を想像して詠んだという石井氏の作品は、新人賞ということと、震災にもからむ時代の空気も含めて問題になったのか?
素朴な文体であるし、祖父の死としてそのまま詠んでもよかったのでは?
ありのままというのは奥深い。頭の中で作ると、自分を出られない。(吉)

平井弘は、実在しない兄の戦没を詠み批判された。
日中戦争に従軍した渡辺直己は、没後、一部の作品が伝聞、空想であったことが判明し評価が変わった。
肉親の死や戦争、震災体験は、内容の重さで倫理の問題になる。
実体験であっても歌のうまくない人もいれば、実体験はなくてもうまい人もいる。そこは必ずしも比例しない矛盾がある。(吉)

永田和宏には、旧約聖書のカインとアベルを題材に詠んだフィクションの連作がある。異母妹がいる自身の境涯をストレートには詠えなかったのではないか。作者の境涯にどこまで踏み込んで詠むべきかは意見の分かれるところだが。
高野公彦の「楕円思想」は処刑された人の手記から、その人になりかわって詠んでいる。
たとえば『こぼれ落ちしボタンが床に光りをり寒きかな獄はゆふべとなりて』の、「こぼれ落ちしボタン」のように、フィクションであればあるほど細部が大事。(吉)

連作「人魚の肉」は、若さを失うかなしみを幻想小説風に詠った。性的なモチーフも含んでいるので、そのままは詠えない。単なるフィクションではなく、根っこはある。また、フィクションだからこそ、ディテールを大事にしないとただの作り事になる。実際の出来事のみが現実ではなく、心の中の現実もある。
実体験ベースのフィクションが「人魚の肉」ならば、「旧倉戸村」は全くのフィクション。自分のルーツを歌で作りたかった。言い得ない負の部分があるからこそ、そこが変形して歌に出てくる。(松)

「火柱」は、小泉元首相が靖国神社を参拝したときの連作。実際に神社で取材し、ストレートに言えないことを変形させている。
社会詠には、作品と作者が違っていてはいけない、作品に対する責任があるかもしれない。そうでないと、言葉が人間のからだを離れてしまう怖さがある。短歌は肉声であるから。(吉)

最後に会場からの質問。「どんな虚構もありということでしたが、人の悲惨だけは本人のものではないでしょうか?」
昔は代作というものもあった。自身の体験を詠うというのは近代以降の倫理観。震災にしても、映像などを観て、感情移入して詠いたいという気持ちも否定できない。歌人それぞれが自分の中でラインを引くべき。
「私」ってなんだというと、「私」も変わってきている。たとえば、雅号をとっても、本名もしくは姓名のペンネームだったのが、名前のみや、みかん、夏みかんなどになってきている。

実際には、多くの歌を引いての話でとても分かりやすかった。
今回の新人賞作品は、「虚構」自体が大きな問題だったのではなく、公表の仕方やタイミングがまずかったという一面もあるのかもしれない。
フィクションで詠む場合、フィクションを選択する必然性、そして全体から細部に至るまでの完成度に心しなければならないと思った。
「短歌は肉声」…こころに響いた。

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コメント

意欲的によいイベントに参加されたましたね。先日のプロムナード短歌の話と合わせて読むと
虚構(フィクション)の問題と悩みがよく分かります。
この前は虚構で何が悪いと瞬間的に反応してしまいしたが、その後じわじわ、そうは言ってもと
ぐじゅぐじゅ尾を引いています。
短歌より短い川柳の方がより真剣に考えなければいかん事のように思います。
虚構と口語でより、若者や愛好者を増やしたのは事実でその流れは止めようが
ないようにも思いますが・・・それでいいのかという声も否定できない、うーん悩ましいね。

マルさん、こんばんは。

いい会でしたよ。
こうしたテーマは、対談の方が論点がはっきりして分かりやすいですね。

現代川柳は私を詠ってきましたから、いずれ虚構問題にはぶつかるでしょうね。
若い人の感性、ことば使いや文体…、新しい書き方の句が出てきたとき、
「新規性」に惹かれて評価するってことも、十分考えられます。

なんと言いますか、川柳は誰にも書けますが、
そう簡単なものになっちゃっても困るんですよね〜。
限界集落状態の川柳としては、夢のような悩みですけど(泣)

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