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2015年6月

2015年6月29日 (月)

しょうがなかですもんねえと飛ぶバケツ

一生ガラケー使う!と宣言していたのに、なりゆきでiPhoneに変更。

店員さんの、「慣れるまで、たぶんメールが短くなりますよ」に、娘がすかさず「あ、それは大丈夫です。いつも、タイトルみたいなメールしか送ってきませんから」。
店員さん、さすが。さらに短くなりました。「むり」「げっ」「しらん」… 。
ケータイメールは、いつもに増して無愛想です。ご了承ください。

2015年6月28日 (日)

二つずつ買い物かごに入れていく

Ts3g0130_2 川柳二七会 森中恵美子句碑拝見吟行

句碑は、阪急池田駅から商店街を抜けて、路地を入ったところの託明寺境内。昨春、建立された。

 天に川ありよろこびは稀にくる

 茶のはなし女のはなし雪になる

 ため息の中に多彩な男棲む

色紙大の3句が配され、「川柳歴六十五年を記念してこれを建てる」とある。

川柳がお寺を訪れる多くの方の目に触れることを、うれしく思う。

タイトルは、宿題「うれしい」に出した句。

夕べもまた飲んで、バスで帰ってきた。
阪急バス(新型?)の「止まります」ランプは、押すと赤色に灯る。バス中央から後部への段差も赤と黄の電飾が注意を促す 。なんだかなあ、うらぶれた酒場みたいである。
発車して間もなく、トイレに行きたくなる。交差点手前で黄信号になると、(行け!)と念じる。しかし、阪急バスは律儀に信号を遵守。その後もなぜか、黄信号にばかりにぶつかる。(行けたやん!)(行かんかい!)…(安全運転にもほどがある!)と拳を握りしめる。
ふと、一段高い真後ろの座席から視線を感じる。信号で停止するたびに、握りしめる拳を観察されたか?バスが終点に着く。後ろの人を先に促して、トイレなど我慢していませんという顔をして降りた。

2015年6月24日 (水)

はじめての町でいちじく揺らすバス

夕べは、バスで飲みに出かけた。
行きは、仕事帰りと思しき初老の男性と乗り合わせた。おじいさんは、カバンから半分の菓子パンを取り出して、ゆっくりゆっくりちぎって食べた。お昼ごはんの残りではないだろうか。毎日、お昼と帰りのバスで半分ずつのパンを食べていそうな、からだにしみついた動きだった。
途中、セルフうどんのチェーン店前のバス停では、うなぎ丼の写真入りののぼりが目の前ではためいていた。おじいさんは、子どもみたいに窓に顔をつけて、うなぎ丼を見つめていた。(うなぎ、お好きですか?)と聞きたい衝動をこらえた。
それから、高校生が大勢乗ってきて、おじいさんは目を閉じるとあっと言う間に眠ってしまった。それも、決まりのように。
帰りは、とっぷり暮れていた。やっぱりバスは、夜がいい。「とまります」ランプの紫がきれい。一斉に花のように浮かぶ。止まるたびに、人が消え紫が消え…ぽつんとからっぽになるのがたまらなくいい。

2015年6月18日 (木)

記憶

ABCテレビ「警視庁捜査一課9係」。夕べは德永政二さんの息子さんの脚本、「3つの捜査線」。3つの事件に共通する人間関係と物証から謎が解かれてゆく。事件の鍵を握る元ヘルパーは、ある老女に会いに行ったために逃げ切れなくなる。しかし、老女は彼を覚えていなかった。心の弱さでいつも人生を棒に振るという彼へ、加納係長の差し出したのは老女の折った折り紙…。彼といっしょに折ったうさぎだった。

ちょうど読み終えた、「長いお別れ」(中島京子 文芸春秋)と、人が人へのこすものということでつながっていた。
「長いお別れ」は、認知症を患った夫を介護する妻と、娘たちの話。作者の体験なのだろうか?リアルでシリアスな現実ながら、どこか笑いを誘うような語り口は愛情にあふれている。
脳の記憶や、言葉を失っても、肉体の記憶、あるいは、たましいの記憶とも言えるものは確かに残る…そう思わせてくれた、二つの作品だった。

ちなみに、認知症のことを、「長いお別れ(ロンググッバイ)」と呼ぶそうだ。少しずつ記憶を失くし、ゆっくりゆっくり遠ざかるから。

2015年6月15日 (月)

二三本余った指で触れている

よくない報せや突然のお別れの合間に、たのしいイベント、初体験もあり、気持ちが忙しなかった。笑うたびに、すうすうするような…そんな感じがつづいている。

山頂のお寺には、撫でるとしあわせになれるという、大きな蛙さま。手のひらをすべらせると、なまあたたかくて、ざらざらで…しあわせの手触りを思う。
「市民の木」に認定されたヤマボウシは、七分咲きくらいだろうか。結界のむこうに白く浮いていた。「このヤマボウシは、兵庫県で二番目に大きく、樹形は一番美しい木です」と説明書きがある。県内のどこかで咲いている、大きさだけが一番のヤマボウシを思う。

今日は、大きいだけのヤマボウシみたいにぽかんと浮いている。

2015年6月10日 (水)

言葉と

見た、ということは、何の痕跡も残さないが、大人になってみると、そうやって、意味もなく何かを見たという時間の堆積が、わたしの心をつくったのではないかと感じる。

語るというのは奇妙な作業である。何もないところから、いきなり語りだす。だが、本当に何もないのか。何もないわけではない。実は何かある。ふわふわと漂う、物語の種が。
たとえば、ここに、一人の人間を登場させよう。「次郎」と言う。「次郎は柿が大好きです」と言う。「あるとき食べた柿は渋い柿でした」と言う。「食べるなり、ぺっとはきだしてしまいました」と言う。「次郎」という名前がふっと口をついて出たとき、その瞬間には、まさか次郎が渋い柿をはきだすとは、語り手は思っていない。
それが樹子には不思議である。前へ前へ、進んでいく力。言葉の力だけではない。言葉が一個ずつ連れてくるイメージがあり、そのイメージに言葉を重ねると、その言葉がまた別のイメージを連れてくる。こうして言葉と言葉でないものが、パイのように折り重なりながら、それがエンジンとなって、話が進んでいく。語り手も知らない未知の世界へ。
(「黒蜜」小池昌代 筑摩書房)

2015年6月 5日 (金)

「ほぼむほん」 きゅういち句集

  遠雷やすべては奇より孵化をした

  自転車に下唇を当ててみる

  昏睡に野焼きの煙低く見ゆ

  原子炉で冷たい飯を炊かんかな

  それとなくバナナが笑うおい小池

  永遠の廊下を磨く銀座支社

  ビニール袋にまだ脈打っていて美しき

  今更を並べ終えれば渚かな

  逆さですあふれそうです鶴見えます

  パサパサの忍び難きが炊きあがる

私の引いた10句は、比較的味わいやすい作品。1句の中に言葉が多い。多弁なのによく分からない句が並ぶ。具のいっぱい挟まったフランスパンみたい。噛んでも噛んでも呑み込めない。だいたい20句くらいで、顎が疲れ満腹になるので、休み休み取り出しては齧る。くり返し読むうちに、食感や、音、匂いの好きな句が出てくる。少しずつ馴染んでいく感じ…やばい、やみつきになるかも。たまにはこういう句集も読まないと、川柳顎が弱る。 (川柳カード叢書①)

2015年6月 4日 (木)

散歩会@さかい利晶の杜

天王寺駅からちんちん電車に乗って、今年3月にオープンしたばかりの「利晶の杜」へ。堺の生んだ、千利休茶の湯館、与謝野晶子記念館は、大型タッチパネルや映像たっぷり、ビジュアル感満載の文化施設。晶子の朗読を聞くことができたが、低くやわらかな厚みのある声だった。施設の一角には、なぜかスタバ。抹茶フラペチーノもあるけど…。

  ちんちん電車の窓におととしの私

  水無月を流れる臨月のメロン

  歯みがきのチューブを絞る躙り口

  包丁を研ぐ音になる立ち話

  ふた口で食べる罌粟餅母といて

  にじり口抜けるくるんと裏返る

2015年6月 2日 (火)

鈴菜句集

  大文字遥かに揺れる金魚鉢

  こんにゃくの上で夫が揺れてます

  どこまでも二人の視野にいる蛍

  ジグソーをひとつ埋め込む雪の音

  公園のブランコがまだ揺れている

  黒糸が通ったままの針の穴

  笑ってるようで笑ってない写真

  風向きが変わって光る麦畑

  風鈴が止まる小さな隠し事

  ガレのようでもあり百均のようでもあり

藤本鈴菜さんの句集。全ページに、作者の手による猫の挿絵。愛らしい笑顔の猫ちゃんが多くて、どことなく作者に似ている。鈴菜さんは伝統川柳、京都番傘の方。「笑い」「穿ち」「軽み」の3要素に叙情がプラスされ、伝統川柳と 現代川柳とが大きく交わるあたりで書かれている。平明なことばで書かれた、一見、一読明快の作品はさらっと読み流してしまいがちだ。深みを見落とさないようにしなければならないと思う。

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