« 「ほぼむほん」 きゅういち句集 | トップページ | 二三本余った指で触れている »

2015年6月10日 (水)

言葉と

見た、ということは、何の痕跡も残さないが、大人になってみると、そうやって、意味もなく何かを見たという時間の堆積が、わたしの心をつくったのではないかと感じる。

語るというのは奇妙な作業である。何もないところから、いきなり語りだす。だが、本当に何もないのか。何もないわけではない。実は何かある。ふわふわと漂う、物語の種が。
たとえば、ここに、一人の人間を登場させよう。「次郎」と言う。「次郎は柿が大好きです」と言う。「あるとき食べた柿は渋い柿でした」と言う。「食べるなり、ぺっとはきだしてしまいました」と言う。「次郎」という名前がふっと口をついて出たとき、その瞬間には、まさか次郎が渋い柿をはきだすとは、語り手は思っていない。
それが樹子には不思議である。前へ前へ、進んでいく力。言葉の力だけではない。言葉が一個ずつ連れてくるイメージがあり、そのイメージに言葉を重ねると、その言葉がまた別のイメージを連れてくる。こうして言葉と言葉でないものが、パイのように折り重なりながら、それがエンジンとなって、話が進んでいく。語り手も知らない未知の世界へ。
(「黒蜜」小池昌代 筑摩書房)

« 「ほぼむほん」 きゅういち句集 | トップページ | 二三本余った指で触れている »

コメント

桐子さん、こんばんは

もう30年ほど前になりますが、川柳をはじめた頃
僕は言葉というものが信じられませんでした。
それは、それまで絵を描いていたこともあって
絵の世界で表現できるものを言葉で表現するのは無理だと
そう思いながら川柳を書いていました。
今でもなぜ川柳をやめなかったのか不思議です。
だからイメージから言葉、言葉からイメージの展開はよくわかります。

言葉になる前の「思う」ということがありますが
これは絵につながっても言葉につながっても
はじまりとしては同じところにあるように思います。
この「思う」ということのはじまりが川柳にあったおかげで
やめないで済んだのかもしれません。
これはよくわかりません。

政二さん

私も、舞踏とか身体表現が好きだったので、
そうですね、やっぱり言葉の表現には限界を感じていました。
言葉からイメージへ展開しやすくなったのは、ごく最近です。
川柳を書くうち、特に題詠がトレーニングになったのでしょうか。

つづけられているのは、何でしょうね?
たしかに、「思う」「感じる」ことは、大きいですね。
あと、言葉のもどかしさが、魅力かもしれません。

ところで今日、画家のダリは、小さな靴下に無理やり足を突っ込むと
一瞬にしてインスピレーションを得たと、本にあったのですが
ほんとうでしょうか?

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 「ほぼむほん」 きゅういち句集 | トップページ | 二三本余った指で触れている »

無料ブログはココログ