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2015年11月27日 (金)

柿の実を数えてくれる喉仏

何でもない情景なのに、心に残るものがある。ほとんど無意識に切り取る一コマには、何か心を動かすものがあるのだと思う。

「桐子さん、俳句になってきてるよ」と、数ヶ月前に某句会で言われた。俳人さんが、「川柳になってきてるよ」と言われると、ムッとするでしょう(たぶん)。 川柳を俳句ぽいと言われて、気を悪くする人はほとんどいないと思う。私も、嫌な感じはしなかった。そこは、どっちでもいい気もする。ただ、作品に点数が入らないのは、俳句ぽさの問題なのか、クオリティの問題なのか…そこだ。

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コメント

桐子さん
そうですね。

俳句らしい俳句であるとか
川柳らしい川柳であるとかは
もうどうでもよく

川柳を書きながら
俳句のよさを認め
俳句に関わりながら
川柳のよさを認める。

そして、あくまで川柳は川柳を
俳句は俳句を書く。

表現の世界に関わっているということに集中して
お互いのいいところを認め合う。
そこからまた新しい表現が生まれる。

心を響かせる表現になっているかどうかを思うと
俳句とか川柳とかにこだわっておれない。

そして、俳句には俳句の幅があり
川柳には川柳の幅がある。
その幅を認めることから
新しい表現が生まれる。

最近はそんなことを思います。

政二さん

俳句と川柳…まあ双子みたいなもんですもんね。
背格好もいっしょだし、「よう似てはるわ〜」と言われるはず。
俳句が兄(姉)で、川柳は弟(妹)。
持って生まれた自由奔放気質をもっと発揮したいです。

近ごろ、俳句兄ちゃんは、若返ってるし、
どんどん殻をやぶっていくので目が離せません。
こっちはやせ細って…いや、がんばりましょ!

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